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〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書)
仲正昌樹
→ マーケットプレイス: 600 円 より 定価: 882 円 アマゾン売上ランキング: 11858位 新書 / 通常24時間以内に発送
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相変わらず整理整頓がいきとどいている
今回は、思想や哲学が突き詰められていけば、もともとは根拠のない(イデアや真理や理性や精神や霊などの)“何か”を辛抱する形而上学の様相を呈していき、結局似非宗教となんら変わらないものになってしまう、というメカニズムを探求する。タイトルには「現代」と入っているが、それは冒頭の「ネオリベ」の箇所と、後半のデリダやフーコー、はたまた筆者の実体験を論じた箇所を指しているだけで、本全体は現代に限らずプラトンのイデア論に始まり、思想・哲学史を広くカバーしてくれている。
しかし、なんだろうこの既視感。
思想・哲学史を洗いざらい、しかも理路整然とわかりやすく整理していきながらも、どこか粘っこいこの独特な文体。実は仲正は今回と似た仕事を、『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言 (ちくま新書)』という新書で以前にもしていたのである。本の詳細は個別のページを見てほしいが、「他者のエクリチュール」について論じた箇所などは、ほとんどまるかぶりといっていい。
本書が思想・哲学史の概観をなぞりながら、人間の思考にひそむ形而上学の不可避性を論じているのに対して、この『「分かりやすさ」の罠』では、同じく思想・哲学史を振り返りながら、人間に不可避的に宿ってしまう二項対立的な認識の図式を解説している、といえる。
要するに、本書と『「分かりやすさ」の罠』は、思想・哲学史という同じテーマを据えながらも、少しちがった角度から光を当てている、いわば兄弟のようなものだといってよいだろう。
だから、この本を読むことに確かな意義があると単独としての評価はできるが、『「分かりやすさ」の罠』を読んだことのある人は、この本に物足りなさを感じるかもしれない。
僕としては、もう思想・哲学史をこねくり回しても別段目新しいものは見あたらないだろうし、結論的にもこれ以上先には何もないような気がするため、著者には次のステージに行ってもらいたいところだ。
それはずばり、著者が本書でも少し語っている統一教会入信時のエピソードである。それの刊行が待たれる。
(2008-12-25)
信じようとする「宗教」vs 疑おうとする「哲学」
《プラトンが「真理(アレテイア)」という言葉で表しているものには、
「正しさ」と「隠されていないこと=露出していること」の二重の意味がある》。
《「洞窟の比喩(プラトン)」を、ギリシア的な「アレテイア」観が、
西欧近代を特徴付ける「真(正)/偽」の二分法の「真理」観へと移行していく第一歩として位置付け》た
ハイデガーの講義『真理の本質について』の解説が秀逸。
《(科学的・理論的な)「正しさ」と結び付いた「真理」観は近代的なものであり、
ギリシア語の<aletheia(アレテイア)>においては、
「正しさ」よりも「隠されていないこと=露出していること」という意味のほうが優勢》
《「(現時点で)隠蔽されているもの」と「(現時点で)顕わになっているもの」の間の
相関関係で決まってくるものであって、"究極の正しさ" ということではない》。
《「疎外される以前の自然な状態があった」という想定自体が、イデオロギーである》。
《"我々" の世界には、純粋なものはあり得ない》。
《二項対立図式(「真(正)/偽」)抜きで、どのように世界を理解したらいいのか?》
《自分たちを規定するものを知ることが、それとは異なる "何か"の可能性を知ることに繋がる》。
《思案を重ねた挙句、結局、もとの二項対立図式に戻ってきてしまう》ことに、
自覚的な「哲学」。ともすれば忘却しがちな「宗教」。 (2008-11-08)
自らが気付かないところで如何に大きな影響を受けているか
そして本書で最も興味深いのが、これら宗教、哲学、思想の結びつきを説明していることでしょうか。私は別にキリスト教でもなく、信心深い訳ではないのですが、普段の思考の根底に如何にプラトンやキリスト教の影響を受けていたかを知りました。
(2008-10-27)
「哲学的なあり方」を教える本
そもそも、体系的で包括的な「思想・哲学」というものが、いかに「擬似宗教」となっていくのかを、現代思想に大きく影響を与えているハイデガー、ハンナ・アーレント、デリダなどの言説を使って、明らかにしていく。
偉大な哲学者・思想家たちが形而上学にハマってしまっていることを指摘するが、「形而上学から、抜け出そう」とは書かない。「形而上学から抜け出せると思いこむこと自体が、形而上学的な話だ」という。
著者は、デリダの「マルクスの亡霊たち」を参照して、哲学したいなら「自らの形而上学に自覚的であるべき」だとする。はじめっから、自分の信仰に基づいた話に「信憑性」や「権威」を持たせるために、「思想・哲学」を使うのは本末転倒であり、「思考過程」こそが、哲学にとっては大事だと説く。
いろいろな思想・哲学を参照して、“自由”に考えた結果、最終的にたとえば左翼の言説とかぶってしまっても、「自分は○○という形而上学に依拠した考えを持っている」と反省的になれるかが、肝心だという。それが、哲学的な振る舞いの上で、重要なのでしょう。
本書のあちこちで「信仰」のデメリットとして、「自分の信仰体系や世界認識が他人に受け入れられないと、その他人を暴力的に排除しようとする」ことを述べている。だからこそ、著者は「擬似宗教」になってしまうことに批判的になっていると思われる。
そうした狭量なありかたにならないための方法として、「哲学的になる」という戦略があるのだ、ということを本書から学びました。また、現代思想の知識も得られて、一挙両得です。 (2008-09-24)
現代思想の「弱者探し」ゲーム
ここでの「価値観の異なる他者」とは、例えば、女性であり、レヴィ=ストロースの発見した「野生の思考」の持ち主であり、サイードの『オリエンタリズム』が描き出した、相対的な「弱者」であった。しかし、ポストモダン(を担いで騒いでいた人たち)は今度は「弱者探し」の暴走を始める。
<・・・西欧的で近代的な人間観とは反対のところに”真の人間らしさ”があるかのように、「弱者探し」ゲームに夢中になるポストモダン左派的な議論にはまると、かえって形而上学的な話になってしまう。「理性」に代わって、情念、慣習、伝統、共同体感覚、象徴的記号などを”中心的な原理”にしようとする新保守主義的な議論についても、同じことが言える。>(p.191)
ということで、あらゆるところに「原理主義」に向かう傾向が人間にあるということが書かれている一冊。「『弱者探し』ゲーム」という言い回しはどきっとするね。確かにその通り。最近は地球を弱者にするのが流行ですね。あとは鯨とか。鯨で思い出したが、北京オリンピック期間中は周辺の犬を食べさせる店は犬を出しちゃいけないんだって。<非倫理的>に映るんでしょう。個人的には全く犬を食べる気にはならないが。。。その犬食反対のみなさんは、インド人にさ、牛を食べるな、って言われたらどうするんだろうな。 (2008-07-12)












