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占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書) 雨宮 昭一 → マーケットプレイス: 339 円 より 定価: 735 円 アマゾン売上ランキング: 11986位 新書 / 在庫あり。
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[ユーザーによる評価] 平均評価: 4.0
/ 総数: 11件
学校で教えない近代、現代
戦前・戦中と戦後の連続性
多様な可能性に満ちた時代
政界再編が窺われる現在、一読に値する
改革における外圧の必要
学校で教えない近代、現代学校の歴史では、近代、現代をほとんど教えない。
過去の失敗を繰り返さないという意味での歴史の役割が断絶している。
本書は、学校で教えなかった歴史をつなごうという意味で有用だ。 (2009-09-14)
過去の失敗を繰り返さないという意味での歴史の役割が断絶している。
本書は、学校で教えなかった歴史をつなごうという意味で有用だ。 (2009-09-14)
戦前・戦中と戦後の連続性 「1945年8月15日をもって何もかもが変わってしまった」という一般的な観念に対するアンチテーゼの一冊。
ヒヤリングなどの緻密な調査からこのテーゼへに挑んでいる。戦前の日本にも複数の政治勢力があり、戦中の総力戦体制が戦後にも影響を及ぼした、また戦後改革の萌芽も戦前に見出されるとしている。いささか刺激的な主張である。
あまりに分かりやすすぎる図式的な理解に一石を投じ、より実証的な歴史理解を目指させるという点では大いに評価したい。しかしまだまだそれを裏付けるには多くの検討が必要であろう。
岩波書店のような「進歩的な」出版社からどんな形であれ、戦前・戦中と戦後の連続性を説く本が出たのに驚いた、と言っては「それは偏見だ」とか「不勉強だ」とそしられるだろうか。
(2009-02-20)
ヒヤリングなどの緻密な調査からこのテーゼへに挑んでいる。戦前の日本にも複数の政治勢力があり、戦中の総力戦体制が戦後にも影響を及ぼした、また戦後改革の萌芽も戦前に見出されるとしている。いささか刺激的な主張である。
あまりに分かりやすすぎる図式的な理解に一石を投じ、より実証的な歴史理解を目指させるという点では大いに評価したい。しかしまだまだそれを裏付けるには多くの検討が必要であろう。
岩波書店のような「進歩的な」出版社からどんな形であれ、戦前・戦中と戦後の連続性を説く本が出たのに驚いた、と言っては「それは偏見だ」とか「不勉強だ」とそしられるだろうか。
(2009-02-20)
多様な可能性に満ちた時代 1944年生まれの政治学研究者が2008年に刊行した本。従来、占領と改革の時代は、左右を問わず、「成功した改革」として描かれてきたが、著者はこうした無条件降伏モデルに疑義を呈する。まず第一に、当時の日本には、国防国家派、社会国民主義派、自由主義派、反動派という4つの政治潮流があり、前二者が総力戦体制を支えたが、後二者が反総力戦連合を形成し、降伏を受け入れうる政治主体となった。この対立は戦後にも引き継がれ、保守対革新という、後からつくられた軸とは異なる軸を形成していた。第二に、日本ではすでに総力戦体制によって社会が変革されており、戦後改革はその延長線上に行われた。加えて第三に、戦前からの動きや敗戦に伴う社会変化をも考慮すれば、占領が無くとも敗戦に対応して、自ら類似の改革がなされる可能性があった。第四に、天皇退位によって、日本が独自に敗戦責任をとる可能性もあり得たが、米国は他の連合国の反対を押し切り、占領に利用するため天皇制を維持する代わりに、日本国内の諸憲法案をも参考にしながら、社会民主主義的改革と戦争放棄を日本に受け入れさせ、国民も改憲阻止によって、後にそれを追認した。こうして日本は、戦争責任や協同主義などを冷戦体制の中で封印しながら、民需中心の高度成長を展開していく。50年代には、国家や資本から自立した多様なコミュニティーが存在し(互酬関係中心の社会)、革新勢力の基盤となったが、それらも高度成長の過程で解体されてゆく。こうして著者は、この時代の日本社会を多様な可能性に満ちた自律的な社会として描き、それらが封印されていく中で、55年体制が形成されたと見るのである。著者の想定する主体が概して指導者(95頁)であることや、自前の改革の可能性を強調する点が気になるが、多様な可能性に配慮して、単純な押し付け論と距離を保っている点は、注目に値する。
(2008-11-13)
(2008-11-13)
政界再編が窺われる現在、一読に値する著者の主張は、「現在日本の骨格となっている一連の戦後改革は占領政策によるものとされているが、改革の原点は戦前の日本社会から継承したものの中にあったので、占領が無くても改革は行われた」となっているが、その主張は事後からのレトリック的考察に過ぎず、与することは出来ない。
成程、萌芽はあったのだが、徹底的に弾圧を受け瀕死の状態で育つことは恐らくあり得なかったと推断する。
敗戦後であっても、国会は軍部に懐柔された大政翼賛会に牛耳られたままの状態で、連合国総司令部(GHQ)の強引な「公職追放」実施無しには、それらに属する議員が当選多数を占めて、一切の改革はなし得なかったと思われるからだ。
しかし、著者の次の分析・予測は傾聴に値する。
戦後体制は、国際的には戦勝国によるポツダム体制・サンフランシスコ冷戦体制、政治的には1955年の自民2/3・社会党1/3体制、経済的には民需中心の日本的経営体制、法的には日本国憲法体制からなる体制である。
そして今、この体制が高度経済成長を経て揺らぎ、次の体制へ移行する処であろう。
このまま放置すれば、その方向に行く体制をパート1、選択する体制をパート2と考えると、パート1は国際的にはアメリカ中心堅持、経済的には新自由主義、法的には憲法改正、社会的には市場主義の体制となろう。
パート2は国際的には国家主権の相互制限、アジアにおける安全共同体、経済では非営利・非政府の協同主義と市場主義の混合体、社会的には個性化・多様化の基づく非営利・非政府領域と連帯の拡大となる。
パート2移行となれば、保守も革新も分解を始めるだろう。
現在与党の自公政権与党もパート1派が勢いを無くし、民主党を核とする野党もパート2を志向しつつ活動していることが窺われる情勢で、現実にも「ねじれ国会」となっている現時点に於いては、過去から将来を見据えると言う観点から一読に値する本と判断したい処です。
(2008-06-11)
成程、萌芽はあったのだが、徹底的に弾圧を受け瀕死の状態で育つことは恐らくあり得なかったと推断する。
敗戦後であっても、国会は軍部に懐柔された大政翼賛会に牛耳られたままの状態で、連合国総司令部(GHQ)の強引な「公職追放」実施無しには、それらに属する議員が当選多数を占めて、一切の改革はなし得なかったと思われるからだ。
しかし、著者の次の分析・予測は傾聴に値する。
戦後体制は、国際的には戦勝国によるポツダム体制・サンフランシスコ冷戦体制、政治的には1955年の自民2/3・社会党1/3体制、経済的には民需中心の日本的経営体制、法的には日本国憲法体制からなる体制である。
そして今、この体制が高度経済成長を経て揺らぎ、次の体制へ移行する処であろう。
このまま放置すれば、その方向に行く体制をパート1、選択する体制をパート2と考えると、パート1は国際的にはアメリカ中心堅持、経済的には新自由主義、法的には憲法改正、社会的には市場主義の体制となろう。
パート2は国際的には国家主権の相互制限、アジアにおける安全共同体、経済では非営利・非政府の協同主義と市場主義の混合体、社会的には個性化・多様化の基づく非営利・非政府領域と連帯の拡大となる。
パート2移行となれば、保守も革新も分解を始めるだろう。
現在与党の自公政権与党もパート1派が勢いを無くし、民主党を核とする野党もパート2を志向しつつ活動していることが窺われる情勢で、現実にも「ねじれ国会」となっている現時点に於いては、過去から将来を見据えると言う観点から一読に値する本と判断したい処です。
(2008-06-11)
改革における外圧の必要 一連の戦後改革はすべて占領政策によるものである、占領以前と以後で政策は180度の転換を
遂げた、とする旧来の歴史観に異議を申し立てるべく書かれた一冊。
著者の主張に一定の妥当性があろうことは認める。下部構造が上部構造を規定する、では
ないが、戦前から既に婦人解放やらの改革の萌芽が存在したであろうことは理解できるし、
また人間の思考が一夜にして反転することの異常を思えば、知的な土台はある程度形成されて
いた、とみるのがむしろ通常の感性とさえ言えるだろう。事実、戦前の日本にも吉田、幣原、
浜口といった人物は既にいたわけだ。
とはいえ、そもそも新書に厳密な裏づけを要求しうるのか、という問題があるにしても、
この書が歴史議論に寄与するほどの何かを達成したとはとても思えない。まず、天皇の問題、
軍部の問題についての論証が絶対的に不足している。この点を避けて政策の内的一貫性を
語ろうとしても、そこに説得力が生じて来ようはずもない。たとえ占領軍の存在がなくとも
改革の多くは実現されていたことをこの一冊によって証明したとは到底受け取れない。
読みながらふと頭を過ぎったことがある。それは日産をめぐるカルロス・ゴーン革命。
日産の旧経営陣に言わせれば、ゴーンの登場以前から、リストラを筆頭とした各種の改革の
必要性、必然性は理解していたというし、また、彼が実際に行った施策も、事前に彼らが予想
していたものを上回るものではなかった、とも聞く。
しかし、だからといって、そのことは古株連中によって改革が果たされたその可能性を
証するものではない。否むしろ、ゴーンの手法の蓋然性、妥当性を証明するに過ぎない。
アウトサイダーゆえにこそ、なしうることがある。
同様のことが、戦争前後の日本においても言える。
種々のセットアップは整っていた、そのことは必ずしも占領軍を抜きにした改革の可能性を
証するものではない。否むしろ、占領軍の政策の蓋然性、妥当性を証明するに過ぎない。
この本はむしろ、ひどく不完全ではあるが、改革における外圧の必要性を説いた一冊、と
私は読んでしまったが、いかがだろうか。 (2008-04-18)
遂げた、とする旧来の歴史観に異議を申し立てるべく書かれた一冊。
著者の主張に一定の妥当性があろうことは認める。下部構造が上部構造を規定する、では
ないが、戦前から既に婦人解放やらの改革の萌芽が存在したであろうことは理解できるし、
また人間の思考が一夜にして反転することの異常を思えば、知的な土台はある程度形成されて
いた、とみるのがむしろ通常の感性とさえ言えるだろう。事実、戦前の日本にも吉田、幣原、
浜口といった人物は既にいたわけだ。
とはいえ、そもそも新書に厳密な裏づけを要求しうるのか、という問題があるにしても、
この書が歴史議論に寄与するほどの何かを達成したとはとても思えない。まず、天皇の問題、
軍部の問題についての論証が絶対的に不足している。この点を避けて政策の内的一貫性を
語ろうとしても、そこに説得力が生じて来ようはずもない。たとえ占領軍の存在がなくとも
改革の多くは実現されていたことをこの一冊によって証明したとは到底受け取れない。
読みながらふと頭を過ぎったことがある。それは日産をめぐるカルロス・ゴーン革命。
日産の旧経営陣に言わせれば、ゴーンの登場以前から、リストラを筆頭とした各種の改革の
必要性、必然性は理解していたというし、また、彼が実際に行った施策も、事前に彼らが予想
していたものを上回るものではなかった、とも聞く。
しかし、だからといって、そのことは古株連中によって改革が果たされたその可能性を
証するものではない。否むしろ、ゴーンの手法の蓋然性、妥当性を証明するに過ぎない。
アウトサイダーゆえにこそ、なしうることがある。
同様のことが、戦争前後の日本においても言える。
種々のセットアップは整っていた、そのことは必ずしも占領軍を抜きにした改革の可能性を
証するものではない。否むしろ、占領軍の政策の蓋然性、妥当性を証明するに過ぎない。
この本はむしろ、ひどく不完全ではあるが、改革における外圧の必要性を説いた一冊、と
私は読んでしまったが、いかがだろうか。 (2008-04-18)













